大判例

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甲府地方裁判所 昭和38年(レ)18号 判決

控訴人 深谷大三郎

被控訴人 日進商事株式会社

主文

原判決を取り消す。

被控訴人は控訴人に対し、六〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和三七年一〇月二一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

この判決は控訴人において二〇、〇〇〇円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

一、控訴代理人は主文同旨の判決ならびに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

二、当事者双方の事実上の主張は、次に付加するほかは原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。

控訴代理人は次のように述べた。

(一)、被控訴会社代表者剣持正芳は、控訴人が前記控訴審判決の言渡しを聞き間違え右約束手形金の支払いを免れないものと誤信し、直に右剣持に対しその減額および支払い方法について配慮の上話合いをしてもらいたい旨要請してきたのを奇貨として、その話合いの日を約一週間先きと定めたが、その翌々日突然控訴人方を訪れ、右約束手形金は元利を合計すると二〇〇、〇〇〇円になる、支払いが遅れると利息も増加し解決が困難になる、一日も早く解決するのが得策である旨控訴人に申し向け、控訴人の右錯誤を深かめ同人をしてもし早急に解決しないと二〇〇、〇〇〇円もの金員を支払わなければならなくなると誤信させたうえ、六〇、〇〇〇円を即金で支払うことを承諾せしめ、その交付を受けたものである。したがつて、控訴人の右意思表示は剣持の詐欺によつてなされたものであるから取り消しうべきものである。よつて、控訴人は被控訴人に対し昭和三八年一〇月一五日の口頭弁論期日において右意思表示を取り消す旨の意思表示をなした。以上の次第であるから、被控訴人は法律上の原因なくして、控訴人より六〇、〇〇〇を受領してそれだけの利益を得ており、これにより控訴人は同額の損失を蒙つたものであるから、控訴人は被控訴人に対し不当利得の返還として六〇、〇〇〇円の支払いを求める。

(二)、被控訴人の民法第六九六条による主張を否認し右控訴審において控訴人が敗訴した事実は、右和解の前提となつていたから右事実については同条の適用はなく錯誤の主張は許るされる。

被控訴代理人は、

(一)、控訴人主張の欺罔行為をなしたことは否認する。

(二)、右和解により控訴人、被控訴人間の右手形債務の存否にかんする争が解決されたのであるから、右和解につき控訴人主張のような錯誤があつたとしても、民法第六九六条によりその主張は許るされない。

と述べた。

三、証拠〈省略〉

理由

一、被控訴人が、控訴人を相手どおり、甲府簡易裁判所に控訴人主張のような約束手形金請求の訴えを提起したこと、控訴人は、右手形債務の存在を極力争つたが敗訴し、これを不服として当裁判所に控訴した結果、その主張が認められて昭和三七年一〇月二日「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。」との判決(以下二審判決という)が言い渡されたこと、その際、控訴人および被控訴会社代表者剣持は共に法廷に出頭し言渡しを聴いていたこと、そして言渡し直後控訴人は法廷外の廊下において剣持に対し右手形金の減額およびその支払い方法につき相談に乗つてもらいたい旨申し入れ、剣持はこれに応じ、一週間位後に被控訴会社営業所において控訴人とその話合いをすることを約束したこと、しかるに剣持は約束の日を待たず、言渡しの翌々日である同月四日に控訴人方を訪れ、控訴人と剣持との間で折衝の末、控訴人が被控訴会社に対し右手形金中六〇、〇〇〇円を即時支払い、被控訴会社はその余の右手形金請求を放棄して争いを解決する約束が成立し、控訴人は剣持に即時右金額を支払つたことはいずれも当事者間に争いがない。

右事実によると、右約束は、右手形金にかんする控訴人、被控訴会社間の争いにつきなされた和解契約と認められる。

二、控訴人は右和解は控訴人の錯誤によりなされたと主張するので判断する。当事者間に争いない前記一の事実と、成立に争いない甲第一号証、第二号証の一、二、第三号証、原審証人深谷進の証言、原審における控訴人および被控訴会社代表者(ただし、いずれも後記措信しない部分を除く。)の各本人尋問の結果および弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

控訴人は、右手形債務の存在を争い続け、二審においてその主張に副う判決の言渡しがなされた折、これを聴いていたのであるが、判決主文冒頭の「原判決を取り消す。」という部分を「原判決を破棄し……」と聴いたものの、続いて朗読された主文を正しく聴きとらず、右判決を控訴人敗訴の趣旨と誤解したため、一、二審とも敗訴した以上もはやこれを争つてその支払いを免れることは出来ないから、早急に被控訴会社と話し合つて解決しなくては、と考え、直ちに法廷外の廊下において剣持に「私が負けたんだから、あなたは請求するだろうが、是非相談に乗つてもらいたい。」と頼んだ。剣持は言渡しに立ち会い被控訴会社の敗訴したことを知り、かつ、控訴人の右申入れによつて控訴人が二審判決の主文を聴き違えていることに気が付いたにもかかわらず、この申込みに応じ一週間位後に被控訴会社営業所において控訴人とその話合いをする約束をした。ところが剣持は控訴人が右誤解に気づき気が変ることをおそれて解決を急ぎ、約束の日を待たず、突然判決言渡しの翌々日である同月四日に控訴人方を訪れ、控訴人に右話合いをすることを迫つた。控訴人は判決言渡し後、右判決につき、その訴訟代理人であつた皆川弁護士に聞いてみるとか裁判所に問い合せてみる等のことはせず、一途に敗訴したものと思い込んでいたので、剣持に対し、敗訴したから全額払うべきだが、是非減額し五〇、〇〇〇円位にして欲しい旨申し出、一方剣持は被控訴会社が二審において勝訴したことを基礎とし、「手形金は利息まで勘定すると二〇〇、〇〇〇円位になる。すぐ払えばそれだけ利息も安くなる。」等控訴人の誤信を深かめるようなことを言つて、控訴人に減額するから早急に解決するよう促したうえ、手形の元金九〇、〇〇〇円より控訴人が弁護士費用として支出した二〇、〇〇〇円を引いた七〇、〇〇〇円を請求し、両者で種々話し合つた結果、前記和解が成立し、控訴人は被控訴会社にその場で六〇、〇〇〇円の小切手を振り出し、剣持は領収証を控訴人に渡した。

原審における被控訴会社代表者、同控訴人の各本人尋問の結果中、右認定に牴触する部分は前掲各証拠と対比し措信できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右事実によると、控訴人は二審判決を同人の敗訴と誤信したからこそ右和解を締結したのであつて、控訴人が二審で敗訴したことは、本来、右和解の動機にすぎないが、しかし、右和解をするにあたり控訴人は「負けたのだから……相談に乗つてもらいたい。」「敗訴したのだから全額払うべきだが………減額してもらいたい。」旨申し出、敗訴したことを決定的な縁由として和解することを表示していたのであるから、右事実は和解の単なる動機に止まらず、控訴人の意思表示の要素をなしていたものというべきである。したがつて右和解には要素の錯誤がある。

三、被控訴人は、右手形債務の存否は、和解により解決されもはや錯誤の主張は許されないと主張する。しかし、

右和解においては、二審において控訴人が再び敗訴したことを、争いのない、しかももつとも重要な前提ないしは基礎として手形金額のみについて互譲がなされたことは前認定のとおりである。かかる互譲の対象自体ではなく、互譲の前提とされた事実の錯誤については民法六九六条の適用はなく、錯誤の規定の適用があると解される。

そして、右前提事実につき前述のような要素の錯誤があるので、右和解は無効であると言わなければならない。

四、次に、被控訴人は、右錯誤については重大な過失があつたと主張するので判断する。前述のように、控訴人は、二審判決の言渡しに立ち会い、判決主文中「原判決を取り消す。」との部分を「原判決を破棄する。」と聴きとりながら、そのすべてを正しく聴きとらず、自己が敗訴したものと誤信し、その後訴訟代理人や裁判所に右判決について問い合わせることなどもせずに一途に敗訴したものと信じたまま、早忽に、長らく争つて来た右手形金につき和解をしたものであり、判決を正しく聴きとらず誤信したことも、またたやすくなしうる右のような確認方法もとらずに和解をしてしまつたこともともに注意を欠き軽卒であつたと言わなければならない。

しかし、二審判決の「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。」との主文は法律専門家ではない控訴人にとつては必ずしも明解なものとは言えないから、これを誤解したとしてもさまで強くとがめることはできず、また軽卒に和解をしたとは言え、その間の経緯を顧みると、敗訴したとの誤信の上に立つて解決を申し出た控訴人に対し、剣持は控訴人の誤解を知りながらこれに乗じて、解決を急ぎ、約束された話し合いの日まで待たずに控訴人方におもむき、控訴人が敗訴したことを前提とした金額を示して、早く解決しないと金額も大きくなるようなことを言つて、早急に解決することを促したので、控訴人は誤解に気ずく余裕もないまま和解を締結するにいたつたものである。このような場合にも、さらに慎重に債務の存否、和解の前提となつた判決の内容等について前述のような注意をつくしてから和解を締結すべきであるから、これを怠つた控訴人に過失がないとは言えないけれどもそうかと言つて剣持の右態度およびそれを一因として醸成された右情況にかんがみると、控訴人に対してのみ右注意をつくさなかつたことを強く責めるのは酷であるから、控訴人が和解をしたことをもつて直ちに甚だしく注意を怠つた軽卒な行為であり、重大な過失があつたものとまでは言えない。したがつて、被控訴人の右主張は理由がない。

五、そうだとすれば、控訴人のその余の主張について判断するまでもなく、和解は控訴人の錯誤により無効であり、したがつて、被控訴人が和解に基づき控訴人より受領した六〇、〇〇〇円は、法律上の原因なく、不当に利得したものであり、それによつて控訴人は同額の損失を蒙つたことになる。

したがつて、被控訴人は控訴人に対して右不当利得金六〇、〇〇〇円と控訴人本人尋問の結果により控訴人が剣持に対して右金員の返還を請求したことが認められる昭和三七年一〇月二〇日の翌日である同月二一日からその支払いずみまで年五分の割合による遅延損害金を控訴人に支払うべきである。

よつて、控訴人の本訴請求を相当として認容すべく、右請求を排斥した原判決は不当であるから、民訴三八六条によりこれを取り消すこととし、訴訟費用の負担につき、同法八九条、仮執行の宣言につき、同法一九六条一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 三淵乾太郎 田尾桃二 神崎正陳)

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